若い世代が入社したいと思える魅力的な業態をつくること、
それが我々世代のミッション
事業開発本部
課長 / 43歳
慶應義塾大学 卒業
2022年
事業開発本部へ名称変更し、現在に至る
2021年
業態開発部へ異動
2015年
課長へ昇格
2012年
魚盛御茶ノ水店への業態変更に携わり、
以降魚盛業態を牽引
2010年
担当課長へ昇格し業態開発部へ異動、
鳥どりお茶の水店の店長を兼務
2010年
鳥どり丸の内店へ異動
2008年
新店の咲くら虎ノ門店へ異動
2004年
店長へ昇格
2002年
店長代理へ昇格
2001年
入社、
咲くら横浜店にホール担当として配属される

ご自身の就活を振り返り、当社に入社を決めた決め手を教えてください。

経済学部で金融のゼミに入っていたので、最初は銀行や保険会社などを受けていましたが、OB・OG訪問に行って話を聞いた時に、皆さんお堅い印象だったんですよね。そこに入っていくのは性格的に無理だと思ってしまいまして…就職活動の軸を見直した時に、チムニーさんの1号店や、目黒にある中華料理屋、浅草のふぐ料理屋さんなど、楽しかった飲食でのアルバイト経験と、自分が飲食する時の楽しさを思い出しました。20歳を過ぎてからは飲み歩くようになり、「飲食」が身近な存在だったんですよね。

飲みに行くのもチェーン店ではなく、オーセンティックバーなど結構良いところへ仲の良い友人と行っていました。その友人のお父さんが飲食店を経営しており、飲食の話を聞かせてもらっていたのですが、将来何をやりたいのか?と聞かれた時に、「独立して飲食店をやりたい」と答えました。

元々は銀行等で働いてお金を貯めてから脱サラして、いつかは独立開業したいと思っていたんです。

他にも色々な方に相談した結果、最初から飲食の道に飛び込んだ方が早いとアドバイスをもらい、飲食で働くことを決意しました。結果的には、自分がやりたいと思っていたことを、色々な人の話を聞いて背中を押された感じですね。

そして飲食の会社も受け始め、姉の旦那さんに相談したところサントリー系列の店舗で店長として働いているサッカー仲間がいる、と言われ先輩社員を紹介してもらいました。それがダイナックに今もいらっしゃる方でして、「響」や「膳丸」などかっこよく斬新だと思う業態が多く、その多業態で様々な勉強が出来ると思った点と、楽しそうに仕事をしている“ヒト”に惹かれたというのが、飲食の会社の中でもダイナックグループに決めた理由ですね。

店長時代に一番心がけていたことを教えてください。

お客様に対しては、「営業のプロ」という意識を常に持っていました。超一流のホテルマンは必ずお客様の名前を覚えていますよね。自分たちは居酒屋のサービスマンですが、それに倣ってお客様のことをきちんと覚えるように心がけました。

名刺交換をしたら、忘れないように特徴を書いたお客様ノートを作り、二度目のリアクションでは名前で呼べるようなプロ意識を持っていました。そして、パートナーさんにも同じことを伝えるようにしていました。社員がやるよりもパートナースタッフが出来る方がお客様は感動してくれるんですよね。

店長時代の自分が一番求めていたことは、「この会社に入社したいです」と言ってくれるスタッフを育てること。たとえ当社ではなかったとしても、「飲食が好きになったので、飲食の会社に入社します」と言ってくれたり、飲食の楽しさが分かって本格的に働きたいと思ってくれたりするような人を育てたいという気持ちがありました。

中国から出稼ぎに来ている方や、地方から出てきて一人暮らしをしている学生さんが多かったので、自分は親代わりだという気持ちで、娘さん・息子さんを預かっていますと思いながら接していました。

親御さんがいないところで、社会常識や世間の厳しさ、お金を稼ぐ大変さ・厳しさはきちんと教えてあげたいな、と。自分自身も当時24、5歳で若かったのですが、その意識はしっかりと持っていました。

“魚盛”業態の立ち上げについて教えてください。

とにかく大変でした・・・0からブランドを立ち上げるって、こんなに大変なことなのか、と。

現在の上司が当時も業態開発を担当しており、「鳥どり総本家」や「魚盛」を新しく作っていた時に、私が鳥どりの店長をしていたので当時の調理長と共に抜擢されました。

大変なことはたくさんありました。魚に特化した専門業態という試みが初めてだったので、1店舗目を作るのも苦労しましたが、かなりハイペースで店舗数を開けていったので、店舗を増やしていくことが本当に大変ででした。

今まで私は「咲くら」等そこそこ単価が高く、落ち着いたサービスを提供するような店での経験が多かったので、当時“わいがや系”と言っていましたが、そういう業態で単価3,000円を切り、サラリーマンのお父さんがおこづかいで行けるようなお店を担当するということも初めてでした。

多くのお客様にお越しいただけて、頑張って営業をして「ものすごく売上いった!」と思っても、そもそも単価が低いので、いざ蓋を開けてみたら30万しか売上到達していなくてどうしようとか・・・そんな苦労もありました。

0ベースから業態を立ち上げるということを任せてもらい、お店がどんどん増えていくのは(1年で関東に15店舗)、責任感もプレッシャーもありましたが、魚盛の仲間が増えていくことはやりがいにつながりましたね。

事業開発本部での仕事内容を教えてください。

2軸ありまして、1つは魚盛など既存ブランドのリブランディング、業態の強みを活かしつつアフターコロナに向けて勝てるようなブランディングを行なうという仕事ですね。

もう1つは、今までダイナックグループがやっていなかったような新規事業、たとえば寿司酒場だったり、洋食の食事業態だったり、食事も出来てお酒も飲めるというような、今まで当社がチャレンジしていなかったような分野を0ベースから作っていくという仕事です。

魚盛立ち上げの時は、他の方が作った業態に乗っかっていたようなものだったので自分では絵を描いていないんですよね。

ですが、今回はサントリーのグルメ開発部という専門部署と一緒に喧々諤々やっており、魚盛立ち上げの時と同様大変なのですが、それ以上にやりがいをとても感じています。

魚盛立ち上げの時には、魚盛の競合になるような店舗、魚業態しか見ていなかったことが反省点だったと感じているので、今回はZ世代やミレニアル世代にはどういったものが響くのか?今話題の店舗はどんな活動をしているのか?どういう店舗がメディアに取り上げられるのか?というのを気にして情報収集するようにしていて、とにかく全方向にアンテナを張っています。SNSのチェックはもちろん、実際に話題の店舗に食べに行く調査なども行なっています。

挫折した経験はありますか?

ないんですよね~メンタル強いので(笑)。ヘコんでも何も良くならないと思っているし、ヘコんだって前に進まないといけない。ヘコむことがあったら、お酒を飲んで寝て忘れるようにしています。

自分が一番明日の自分を信用しているんですよね(笑)。明日の俺、よろしく頼むね、って。「明日の俺がやってくれるから」って思うようにすると、楽になるんです。大体、昨日の自分は今日の自分に怒られるんですけどね…

落ち込むこと自体はあります。エリアマネージャーとして店舗を見ていた時は、調理長が辞めちゃうとか、パートナーさんが辞めちゃうとか色々ありました。どうしても「人」の問題は起こってしまうので、そういう時に落ち込んでいましたね。

ただ、自分の中で必ず優先順位を決めていて、「辞めたい」と言われた時にはそれが1番優先。どんな予定があっても、必ず優先してその人の話を聞きに行っていました。

失敗はたくさんありますが、挫折というほどのことはありません。自分が仕事出来るとも思っていないし、ミスするのは当たり前だと思っているので、それを糧にして「明日の俺よろしく、今回失敗して勉強になったでしょ?」という気持ちで乗り越えています。

現在の目標を教えてください。

私自身40半ば過ぎて、若い世代の方々や新入社員たちが将来のビジョンを描けるような会社にしなければいけないと思っています。会社というのは、後輩につないでいかないといけない、と。

当社での仕事は、現場に全て答えがあると思っているのですが、今私は現場を抜けている立場なので、お客様にご支持いただけて、現場のヒトがやりがいを感じながら活き活き働ける店舗を作るのがミッション、ということを常に考えていますね。

閉店する店舗も多い中、将来への不安を抱えている若手社員が多いと思うので、新規事業を立ち上げてそれがバズって展開していくということが増えるようにしていきたいです。店舗数が増える=ポジションが増える=昇進出来る人が増える可能性も出てくる…という好循環があると思うので、若い世代の将来のキャリアが自分たちの部署の成果にかかっているというプレッシャーはあります。

そんなプレッシャーを感じながらも魅力ある会社にしていって、若い人たちが「ダイナックに入社したいです」と思えるようなブランド作り・店舗作りをしていきたいですね。若い子たちはダイナックの店舗を見て来てくれるので、「働きたい」「携わりたい」と思ってもらえるような業態開発をすることは絶対にやらないといけない使命だと感じています。